昭和39年12月27日 朝の御理解
昨夜、御祈念の時間に、丁度御祈念前に教会設置委員の方達は二階で会合をしておられる。下では夜の御祈念がありよる。同時に昨日は土居の共励会でございましたから、あちらにも人連れ。いわゆるそれがその会合の後に、これはまあ親教会に相談に行こうと、話に行こうと言うので、委員会の方達は親教会の方においでられた。帰って見えた、土居の方達も帰ってきた夜の御祈念に( )方達までも残っておった。いうなら、お広前が繁盛しとるわけですね。
あ、二階で会合しござるけ、一人も御祈念する者はおらんというのではない。夜の御祈念は夜の御祈念であっておる、会合は会合であっておる、共励会は共励会であっておる。本当にそういう意味合いでですね、いよいよ椛目が繁盛していかなければならない、どうでも繁盛のおかげを頂かなければならないと、私は最近特に思うんですね。もうあの言うとやら態度では分からん。
態度で示そうなんていうことがあるけど、もうおかげで示していく以外にはないというところまでぎりぎりの所、昨日、日吉さんの発表じゃなかったですけれども、ギリギリの土俵際まで追い込む、追い詰められて、どっこいとかわすという、その底力を見せるとき以外がないといったような話がございましたがね。世間氏子の、うん。世間で憎まれもの世にはばかると、といったようなことを言うけれども。
まあ椛目の場合、いよいよそういう意味合いにおいて一つ、世にはばかるようなおかげを受けにゃいけんなということですね。もう世にはばかりきらんからおかげを頂きたいと私は思うんです。もうミスミスもうそのいわばその妙にも、昨日もそれを皆言ってました実感として、もういうなら、なんと言うんですかもうその、椛目を中心として周囲の方達の場合ですね。
椛目にはもう爪ほどの情はないという事、それがもう愈々分かった今日、だからどうして分からんですかというて言葉で。昨日なんかはもうこう言うてあぁも言うてから、あの話すときやそれはもうやめときなさいと、私行きがけ申しました。帰ってきてからもう先生やっぱ先生が仰ったとおり見事でした、やっぱり先生が言うてあったとおりでしたというてから帰ってみえたんですけれども、内容はまあ別としてですたいね。
いよいよ、本当に世にはばかりきらん事で、はばからせて頂こうというこの願いを立てるわけ、立てなければならんのですけれども、いやその憎まれもの世にはばかりという、よぅっしくそう負けるもんか、そういうようなものではサラサラあってはならないことですね、椛目の場合は、そのことを大事にしなきゃいけんと思うんですね。そのことを拝んでいかにゃいけんと思うんですね。
そしてそこにあの徳を受ける力を受ける、その徳が力がです、世にはばかりきらんようなおかげになってくるのでなければ値打ちはないと思うんですよ。よっし向こうがそれなら違うぞ、といったようなものだったんでは、これはただにくまれもの世にはばかったということだけになる。ね、ですからどうでもここに一つ、もう私は椛目の場合はです、もういよいよ繁盛のおかげを頂く以外にはなか。
もうおかげで示す以外はなか、もうそこにお互いの腹が、昨日の方達の場合は決まったようでしたけれども、これが椛目全体の働きとなってですね、そういうおかげになっていかなきゃならんと、どうぞ憎まれご世に憚るという「理」は変わらんでもですね、内容が違う、そのことその事事態をです、そのことを大事にしていくという信心ですね。
おかげを頂かねばいけません。